法華経からミルトン・エリクソンへ

大阪ミナミの繁華街を歩いていたら、いつの間にか東京上野の繁華街に変わっていた。

という夢を見た事がありました。

今回は法華経の話をしていたら、またまたミルトン・エリクソンの話に変わっていたという内容です。

精神病院で勤務をしていた頃、症例検討会というものがありました。

そこで毎回議論されるのは結局、「その患者さんのメインの薬を何にするか」というものでした。

「患者さんが一生薬を飲み続ける」、という事が暗黙の了解になっていたのですね。

これは仏教でいうと、小乗仏教に相当するのではないかと思うのです。

薬物療法が認知行動療法に変わったとしても、「それじゃないといけない」というのであれば変わりはありません。

法華経は大乗仏教です。

しかも法華経は、小乗仏教までも許容してしまいます。

そして法華経には、方便というものが出てきます。

方便とは、それを使って人を涅槃に導く逸話です。

この逸話自体はアンコモン・セラピーというか、生活の知恵と生活の工夫みたいなものです。

しかもさらにそれを意味付けするメタファーがある、という重層構造になっています。

ミルトン・エリクソンも、「患者さんに逸話を用いて話す」という事をしていました。

といっても逸話だけではなく、色んな手法を用いて患者さんを治癒(?)に導いていました。

そしてやはりエリクソンのやり方も、生活の知恵と工夫みたいなものが多いのです。

そしてまた法華経には「仏陀は永遠である」、という事が説かれています。

いわば輪廻転生ですが、諸行無常と相反する概念です。

これを陰陽の波動と思えば、腑に落ちる気もします。

どちらにしても「釈尊というのはこの世に降りてきた仏陀であり、これからも必要がある時に現世に現れて衆生を救ってくれる」という事のようです。

「なるほどそれならばミルトンがそれに当たるのではないか」というのが、私の妄想です。

「そもそもミルトン・エリクソンのアネクドートがどんな意味を持つのかは、本人でさえわかっていなかったのではないか」という説がありました。

彼は「今でいう発達障害であり、自分自身のやっている事の意味はわかっていなかった」という説です。

しかし「仏陀が姿を変えて現れた」という解釈ならば、あの有名は催眠誘導の言葉も納得がいくのです。

確か、こんな言葉でした。

「嫌な事は全て忘れまーす。心地の良い事だけを感じます。心が軽くなっていくのを感じまーす。

心が宙に浮いたように感じます。心がぽっかりと浮いています。その心に付いていく、私の声が聴こえます。

その声はいつもあなたと共にあります」

これは「一体何様なのか」という言葉ですが、「仏陀は永遠にあなた方衆生のそばにいて、救います」という意味なら腑に落ちるし、そうでないならこんな事は言えないでしょう。

以上、私の妄想でした。